弟と旅にでる 前日譚
「このお金があれば、もっと回りたいところを回れる」しかし、高二の夏、受験前の決断のための情報が欲しい時期に、旅へ誘えらば、よりよい選択の手助けができる。なによりも自身に言動に誠実でありたい。
と思いつつ、ノイローゼで三宮に引きこもり。有金を潰して。
郷里へ鉄籠にふられながら、敗進。習慣の罠をほどけづに苦しむところに、政府より非課税世帯へ物価高の給付金、舞い降りる。
自身のただれたこころ、再度燃え上がらせるため、使いきれていない青春きっぷとともに、前日の夜に誘い、行く。
弟は、気分を上げていた。「明日!マジで。うぇ〜い」
旅へ行くことが決まり、計画をたてる。悟性がうまくはたらかず、計画の重さにつぶされて、気勢を削がれて、ついには足腰が沈殿する、不安なかりしためかな。
ともに徹夜で行程を組む。ぼくが提案し、弟が決定する。
金銭的配慮から、遠く近畿圏、山陽線経由へと絞る。
弟の要求は、おいしいもの(スイーツ系)、都会の繁華街、アンダーグラウンドな雰囲気のとこ、バンジー。
バンジーは却下、お金ない。空からも跳びたがってた。自分がレイプされたハッテン場を伝えると、そこへも行きたがってた。
刺激、そんなに欲しいのか。
かつてのぼくはどうだっただろう。遠くへ逃げるか、美しいものに出逢いたかったな。
尾道からの瀬戸内海国立公園の眺望、岡山駅の意外な都会さ、倉敷の江戸的雰囲気、神戸三宮の盛り場の退廃的雰囲気、神戸牛。大阪新今宮近辺のドヤ街。京都の寺社歴史散歩、和洋とりどりのスイーツ。
選ばれ、3日を埋める旅程は、最寄りの山口市の駅より、岡山駅ぶらり、桃パフェ。夜は神戸散歩。
神戸より別れ、ぼくは大阪で講演会。弟は大阪ぶらり、夜京都祇園さんぽ。
最終日、帰る。
ねむいねむいと、深夜2時に散会した旅会議。6時の始発のため、5時出発。
はてさて、どうでるか、どうなるか、どうするか。
女切り、また辞める
ガチ恋の風雪厳しく、閉じこもる。幾度目かな、「もういらない」と涙ぐむ。
なにも手に入らなかった、永いながい時間が経ってしまった。
これを諦めたなら、人間全般に興味がなくなる。愚かで虚しい。だからこそ一層輝かしくみえる愛し恋し、人の情。これを知らずに、人として生きるのは、あまりにも、あまりにももったいない。
テキトーな対象では我慢ならない。外見を一般で取り繕ったドス黒い塊に恋するなど、ぼくにはできない。
でもそれは、まずほとんどの女性を、結ばれる対象から除外することと同義で、自分から動くことをほとんど不可能にしてしまう。
けれど、欲しい。だから、動きたい。でも、対象さえ見つからない。いても、画面の奥の向こうの向こうにしか。
存在の探究に、瞑想を手段として選んだのなら、捨てるより他はない。邪魔で邪魔で仕方がない、淫蕩への焦がれ。淋しさの埋めあわせ。
淋しさを引き受け、独行に集中しなければ、知識の前提となるサマーディには、ほとほと届かない。
捨てる、捨てる、切り捨てる。想いを引き剥がし、断ち切る。
切り捨て御免の千本撃ち込み。疲れは意気地を弱らしめて、ずぶずぶ沈む。
一夜明け、直る姿勢。
つまるところ、ぼくを苦しめていないのは、欲求を達成できない時分に、「未熟者」「弱者」と自らをなじるからであって、なじることなく、軽んずることなく、テレオロジカル(目的論的)に遊べるのであれば、問題は解消される。
また辞める。また辞めた。

旅で明らかになる生活信念
日常を滞りなく生活するぼくらは、日常より離れて、はじめて日常が前傾することを知れる。
就寝の最低条件としては、空調と仕切り、欲すれば、ある程度のやわらかいマットと静けさ。これで十二分に達せられる睡眠欲。空気が新鮮であればなお良い。
食事。基本どうでも良い。せっかく遠出したのだからと、グルメを装ってたのしもうとしたのだけれど、ぼくには必要がないみたいだ。食べもののために電車に乗り、歩き、地図で確かめる。待つ。食べ終わって後悔する。
喉元過ぎれば、なんとやら。繰り返す。後悔する。
ハレの祝いとして赴くぐらいでちょうどいい。
ほんとうに現地に行き、感じ得たいものは少ないということ。駅のほど近くの観光案内板。下車の道なり、道標。歩く。乗る。感じ得ない。感動が来ない。道なりを移動した時間への後悔。
基本的には、書物、YouTubeで充実する。旅に出て図書館に引きこもる、無駄の極みをやってのける。
景勝、神社仏閣。リトリート、人間関係のアジール。遁走と内省と思惟。新しい日常を切り開く計画のため、日常のために犠牲にされた心身の不定愁訴の治療のため。巡り散らかすものではない。飽きる。
分かっていながら同じことを繰り返している。
エコノミックアニマルとして育てられたこと。経済界の要請が政治、教育にダイレクトに浸透し、機会損失と損失回避。物事の一々に対して価値化することを要請する空気を、あまりにも長く吸いすぎた。
ひとつひとつ、明らかになる問題。自分を造る諸々の信念たち。自分のかたち。
エリート、支配者ならびに実力者批判の虚しさ
熱が冷め、他人を考慮する余裕を取り戻して政治に向きなおる。
支配者被支配者の二項対立。道義を手にとり投げつける。YouTubeという一般向けのプラットフォームから思惟しているからか、そう言った論調ばかりが目につく。
エリート、支配者を生み出すのは我らが母体。我らがかもすその空気を存分に吸って成長した彼らだ。
我々は他人の指摘を素直に検討できるだろうか。我々は耳目正直だろうか。
どんな英雄、歴史的人物も、感情の面では凡庸であったと、瞠目した、学校の机の昼休み。そんなことをおもい返す。(ギュスターブ ル ボン、群集心理)
ブルーロックにハマった5月。(W杯優勝のため、最高のストライカーを高校生を集めて育成するマンが)
ある目的性をもつ集団の高い価値をもつ者に対して、それにつばを吐く価値をつくる意いの担い手。自ら担いだ御輿に毒づく虚しさ。
温泉でゆったりとした心地のなか、今一度政治を想うと、どう思うのかな。
ワーキングプアあふれる日本で想う。
意識レベル。違う、恣意の対象のみが在る。
我想、我見、臆見、雑念にほろほろ、翻弄された労働より思う。
どうも、適当に語られる意識のはなし。ベータ、アルファ派がどうとか、精妙、粗雑な意識とかとか、的を得ない表現の多いこと。
ただ、恣意の対象のみ。恣意する可能性が多ければ、それだけ細やかに。可能性が少なければ、相応の程度におさまる、身心の変性。
恣意する可能性が広大にも関わらず、繊細な変性に軟入しないのは、日頃の恣意の対象がぼんやりとして、ガチンガチンな身体であったり、今日のご飯なんだろうとか、あー今日はあれもしないとなぁ、とかとか、可限的な対象にうすぼんやりと、しかし長いこと、気にかけ続けてきたが故に、計算機としての速度、クロックサイクルがローギアもローギア。錆びつかないけれど、動いてるだけの、資源のあまりにももったいない使いかたをつづけているからだと、ぼくは思う。
対象への集中を欠いているのではなし、ただ、普段、目を向け、耳を向けるものが、貧弱な情報量しかもちあわせていない。貧弱にしか観ようとしない。その態度のツケが、今朝のぼく。