ひきこもりから、社会にあそぶ

常識を壊して、常識にあそぶ、常識を創る

中空に漂うということ〜判断の保留に次ぐ保留

 哲学に病んでよりこの方、世界の有り様についての判断を、徹底して差し控えてきた。意図的にスピリチュアルな世界へ傾いているこの頃もまた、然るべくに保つ、この立場。

 魂の存在、その仮定より流れでる霊界と現界との交流について。

 人間の超次元的感性、未来過去を股にかけて感受する認識作用、言語なる抽象記号を越えて受けわたす、明けわたす、あけすけな想い。それは生命の枠におさまらず、モノにさえ通ずるのだとか。

 運命。科学的な決定論に非ず、超越的一者を元とし、その中たゆたい育まれる命のきらめきは、既に決定されているのだとか。選択能力を主張するものもある。

 いずれも、きめ細やかな条件の中で朝夕鍛錬された知識とは異なり、超常の体験と、反省を欠いたドグマに紐づいた知識。悟りという名で、叩き売られる智慧

 けれども、我らが計算能力は乏しく、巡回セールス問題にも苦戦する。5%の宇宙、深海、気象、種の展開から、命の構造さえも計り知ない、わたしたち。

 このわたしたちの常識は、いったい幾千のコペルニクス的転回をむかえれば、構造の実相に辿りつくのやら。

 

 ぼくは、未知にながれる。知られたものは、かがやきを失う。たぶんフェチ。構造の。存在の。

 スピリチュアルの有無は、あまりに逃れ難い命題。智慧を語るその欲得な面貌を尻目に、嘆息しながら想いを募らせる。

 存在ってなんやろなぁ。