ひきこもりから、社会にあそぶ

常識を壊して、常識にあそぶ、常識を創る

麻賀多神社、期待が隠すよろこび

 香取へゆこうか、迷いを心に秘めつつふらつく。八重洲口の巨大な交差点に佐原、香取神宮をプリントした観光バスが通り去る。この偶然?を必然?と解釈し、明日の予定を決定して、日を待ちまたぐ。

 よく晴れた朝、思念にて香取、鹿島、麻賀多へと挨拶をする。香取鹿島は晴々しく、麻賀多は思念が螺旋へと吸収され、高く上へと排出されるという奇妙な感覚を得た。何かあるやもと期待を抱き、成田方面の列車に乗る。

 まずは近場の麻賀多から。公津の杜駅で下車、歩く。ビルに空間を占拠され、心の広がりが制限される首都東京とはちがい、遮蔽されていない、もしくはできない首都近郊は、比較的心安らかに歩かことができる。ルンルンとパン屋によって、道まちがえたぁ〜と軽やかに笑い、ルンルンとまた歩く。ふと会津、ふと松江、歩く旅路に旅路を重ね、遠いなぁ〜と、きれいだなぁと、想いは風にさらわれる軽さ。

 f:id:KajikiZen:20231106141052j:image

 麗しい鎮守の杜。一段と軽く輝く身心。期待に胸をふくらます。これが後より考えるとミソだった。

 ぼくは神社を参拝しない。霊魂の探究、形而上学の自分なりの了解点のため、なんの霊存在も知覚できねば、感謝も祈りも献げない。ライトワーク、祈りの動植物への波及効果は、人類の知識として確定的であるために、心の趣くままに行いはするのだけれど。

 故に、神社に闖入すると、気を研ぎ澄ます。軽やかさをベースに時折、ピシッ、ピシッと澄ます。なんにもいない、いや、う〜ん。空間の気の詰まり、存在はちらほらにあるのだけれど、神様の、人間の語彙においてただ神としか表現不可能な大慈悲の形と氣は感じなかったし、与えられなかった。有名な天日月でも胸がつまるばかりで残念で悲しかった。樹齢の永い木に一瞬龍を想う。心安くなるやさしい気。だけれども神気とは違う。悲しい。期待は裏返って、切なさとここまでの道のりへ使った経費の採算への情意がもんどりうって、身体を苛む。そんな想いのままに、日月神示の四つ足食うなを破りつつ、境内にて食事をしながらバスを待つ。そろそろかなぁと後ろを振り向けば、バスがやってくる。やばい、間に合わん!荷を急いでまとめんとバタつく間に、ブォーン。

 短く息を押出し、天を仰ぐ。まぁいいやー。一服を終え、境内を去る。未熟なばかりに楽しめなかったなぁ、もう来ないだろうなぁ、帰ろ。

 期待し、外れ、安らかさを自ら隠した、無知なる一幕。

f:id:KajikiZen:20231106144319j:image
f:id:KajikiZen:20231106144323j:image
f:id:KajikiZen:20231106144315j:image
f:id:KajikiZen:20231106144311j:image