ひきこもりから、社会にあそぶ

常識を壊して、常識にあそぶ、常識を創る

命の流転、愛兎の死によせて

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 今日、母からテンちゃんが死んだことを聞かされた。5日前に命を燃やし尽くしたらしい。

 虚だ。なぜだろう?

 彼女の終わりについて、命ある頃から既に、幾許も想いを馳せた。自身に対してのみならず、あらゆる大切な存在について、死と無常とを想ってきた。

 死という経験不可能な観念には、通暁している、という自負があった。メメントモリという言葉を知ったのは中学生の頃だった。それ以後、文字通りの命懸けで、死について探究してきた。希死念慮などという、生優しい快楽を拒絶し、実相を明らかにせんと、グロテスクな暗き欲求を、血の池汚濁に浸りながら、目を凝らしてきた。百戦錬磨、千鍛万練で涵養された自負は、今日失われた。

 僕は、彼女に最善を尽くしてきただろうか?

 僕は、彼女を幸福にしてあげられただろうか?

 僕は、彼女の幸福について考えてきただろうか?

 もはや、如何ともし難い事実が、僕の雑で、センシティブな問いを呑み込んでゆく。答えを実証する機会はとうに失われている。でも、問う。問う以外の選択肢がまったく観えない。

 失われる、流れでる。ただ滔々と、ただ茫々と。

 彼女には、本当に世話になった。あるがままの欲求にしたがい、燦々と生きる様に憧れた。存在力をすべて呑み込んであまりある問いに、輝やけるすべてを呑まれたとき、彼女の泰然とした自然体に、命をつなげてもらった。我々のの都合でゲージに閉じ込められている命の在り様に、深い憐憫と共感を喚起され、そのように生きねばならぬ者たちの苦楽について、熟慮の機会を与えてくれた。

 後、ただただかわいかった。本当にかわいかった。癒された、ただ…。

 僕は、自分にできることはやった。体に負担をかけぬように、丁寧になでた。機会があれば、ゲージから解放させた。ねだられれば、なで、望まぬなら、そっと距離をおいた。退屈そうにしていたら、彼女の平安を祈った。身の回りの世話は僕の役回りではなかったが、役を与えられれば、無難に果たした。可能な限り、一期一会の精神で臨めるように、姿勢に気を配った。年老いてからは特に。

 常にハイパフォーマンスを維持することは不可能だった。が、機会に合っては気張って応対した。良き飼い主であれたかは知らん。ただ、良き飼い主であろうとはしてきた。必要条件は満たしていないが、十分条件は満たしている、と自認する。

 ふと気づく。僕が観るべきは、彼女が死んだ、ということではない。観るべきは、僕が孝行を果たしたいと望む家族に、死期が迫っている、ということだ。怒り、不安、恐怖を嫌というほど撒き散らかして、痛みを与えた祖父母両親。彼らになにが与えられるのか。それを想いたい。

 まずは、1人でもやっていける、という経済的独立の可能性を、充分に示すことだろうか。留意することとして、彼らが納得しうる形にて提示せねば、効果はないということだ。横文字やタームを用いて、現代の社会構造を説明し、現状のもつポテンシャルを力説しようとも、彼らは耳を傾けてはくれない。世代を跨いだ対話は困難を極める。対話可能な融点を探り、望むポジションへ邁進する。今からできることだ。今日からできることだ。よし、まずは、ブログを書こう!

 次点は、玄孫の顔を見せることだろうか?これは中々、どうして。高いスキルと所得、親としての覚悟、また、良縁よりくる伴侶。今は手に負えない。せいぜいが、社会的スキルの獲得への一歩一歩か。

 知らぬ道は、不安におびえる。鈍牛に習い、歩み歩む。

 そして、貴重な学びに感謝を、冥福を、テンちゃん。ありがとう、ほんとうに救われた。f:id:KajikiZen:20230717011928j:image

 どうか安らかに。転生があれば、また出会いたい。

 

 PS 今日ほど霊魂、輪廻転生を実在を望んだことはなかった。これらがあれば、弥勒の知恵により、すべての命、魂の旅路は報われるから。