ひきこもりから、社会にあそぶ

常識を壊して、常識にあそぶ、常識を創る

親方との衝突

 また、親方に怒鳴られる。食べた食器を洗えとのこと。「僕のではない」という主張は、罵声によって塗りつぶされる。彼のために、孤独死してしまいますよ、と忠告すべきだろうか。つい先日、社会問題としての孤独について調べていたことが、現に目の前で現象化しそうな心配が、頭をよぎる。

 しかし、口をついて出たのは、「意見がはっきりしていて、わかりやすいですね。」わずかわずかながらの現状への不平。未熟だなぁと反省する。彼の文言の奥に隠された、ロンリネスに集中することを忘れ、他人より排斥される群生生物としての本能的反応に身をまかした。アウェアネスの欠如、作業をしながら次に備えてイメージトレーニング。

 彼は僕が相当目障りなのか、仕事を与えることなく、「出て行け」と一喝。仕事にあぶれた僕は、女将さんに事の顛末を簡潔に伝えると、ホローが入る。根は良い人だから、確かに彼との確執でここを離れた人もいる、でもご飯はつくってくれているし、ごはんを食べていないと、その心配までしてくれている。根は良いから、と。そう呟く女将さんは、より良いコミュニケーションを諦めたことを、僕に悟られないよう、少し声のトーンを明るく、気丈に振る舞っているように見受けられた。

 

 少し前までおられた先輩は、親方を評して、誰かと仲良くなりたいのに、みんなが離れてゆく悲しい人、と。ぼくもそのように感じる。

 孤独問題は、社会的関係が結ばれていないことに、集中されがちだし、ぼくもその一人にもれなかったけれど、よもやこんな形の孤独があろうとは。関係を結びたくても、気性の故、座礁する。切ないなぁ。思い返せば、学校にもそういう人はちらほら居た。必死になって笑いをとろうとするも、すべる人。決意し、話しかけても、無視される人。自分の持てる力を使っても尚、輪に入れずに、殻に閉じこもってしまった人。近くにいたが、忘れていた。

 

 孤独にも種類があるのだな。かの親方は、築けるだろうか、良き人間関係。

 彼がぼくに願う関係は、フランクにくだけた主従関係なのだろう。けどぼくは、それを呑むことができない。以前、「人として平等に話しませんか」と提案した返答は怒号だった。対等を旨とした対話は不可能に近く、その条件が呑めない相手とのコミュニケーションの仕方を、ぼくは知らない。また、学ぶ気も起こらない。

 

 彼がもし、彼の立場から鑑みれば良好、と思しき人間関係を得たとしても、それは前述の、フランクにくだけた主従関係としてであり、それは、民主主義を支える、平等意識を前提とした対話という、現政体を正常に機能させうる人間関係としては現れないだろう。

 

 孤独が内包する、対話の絶滅。知ってはいたが、体験は初めてだ。こんな味なのだな。苦くて、おかしい、複雑なマリアージュ。シェフの長年の研鑽が可能にする、奇々怪界の風味。