ひきこもりから、社会にあそぶ

常識を壊して、常識にあそぶ、常識を創る

拝む価値、審神者

 夜勤に向けてエナドリをぶち込んだため、眠りを諦め霊を意う。

 スピリチュアリスト、信仰者、宗教者、ぼくはこれらではない。それらを学び、実践し、その価値を量る者だ。彼らの言説に心を傾けると、より明確に自己の立場が明らかとなる。

 いや、ぼくの探求過程には、社会的立場を忘れて熱心するよう注意深く歩みを進めているが、他者を意識すれば即、彼の意識。自他分離の自己言及的態度が現れる、といったところかな。

 占いで未来を知れば、その結果に至る過程は淡白となり、たのしみは減ずる。

 神に寄せれば、自己を有し、たのしむ意味が失われる。(故に究極は解脱)

 霊に依頼すれば、判断、選択のたのしみ、自己自身を生きる必要性がなくなる。

 哀しい哉、良き未来を望みながら、人自身を捧げる。捧げ続けた先は、存在の消失か神か。いずれにしよ、存在の価値は燃やされ尽くし、存在そのものとなるか。存在そのものに価値も意味もないというのに。

 

 霊魂的知識体系の基となる、身心の不思議な現象と反応。更なる探究のためには、知を殺すことを要件とする、啓蒙時代における反社会性を意志しながらも、今このようにつまずく。どうしたもんかね、まったく。

 無頼の探求、やめようか。不安になると、立場が欲しい。弟子でも奴隷でも、立場が明確であれば、やること、できることは定まり、条件の中で生き生きできるから。

 まぁ、その道がないことは知っている。身体がゆるしてはくれないだろうから。だからだろうか、奴隷ですら輝かしい。