ひきこもりから、社会にあそぶ

常識を壊して、常識にあそぶ、常識を創る

バガボンドを読み返しながら

 ネットカフェへの滞在後4日、所持金5000円。道を決めかね、迷う。

 バガボンドが気になりひさしぶりに手に取って読み返す。なつかしい、昔、遥か遠い昔、熱をあげて読み込んでいたっけ。あの頃は殺気だっていたなぁ。

 いつからだったかな。武より離れはじめたのは。一年はたったような、たたないような。武を極めんと、殺害殺傷の道のために必要な道徳観念を切り刻んで、刻み尽くして、用に尽くした。なのに、選べなかった。布団の中で涙を流すほどに真剣にその道を歩もうとしていたのに、歩めなかった。良心、きっとその核へ至ったのだろう。それからは、武より離れつづける一方だった。極めれなければ、価値はなし。修行への情熱は、自己変容への渇望は、仏教的なるものへの注がれはじめ、慈悲の発現により、他者への警戒と報復を前提とした殺伐とした世界より、自他円融、ともに重ねてよろこび合う、爽快で後腐れのない仏の世界の実現に、想いを合わせてきた。その結果として、筋肉質な体からは肉が削げ、射殺す目付きはふんわりとして、別人へと変容を遂げた。

 けれども今、格闘技の世界、阿修羅の無知の世界へと戻らんと画策している。第一にファイナンス、やりたいことをやれるようにするために。第二に奉仕。自分に属する財産を衆生へと供えさせていただくために。

 だけど、他害の世界は漠涼として、よろこびの果実はほとほと少ない。うるおうよろこびを知ったが故に、あの世界へはあまり気乗りがしない。だから、決意しあぐねていた。

 バガボンドを読んで、改めて気づいた。弱肉強食を理として、適者生存を法と仰ぎ、今も幸薄き心で世界を観じ、行為に行為を重ねて、その心性を靭く固くならしめている人、多いのだと。

 ベランダに出て、都心を眺める。向こう岸には、どれ程幸福、人間存在への無知を重ねて、過去と未来という幻想に囚われて生活する人々がいるのだろう。そのことを想うと、苦しくなる。

 ぼくには、彼らに献げる知識と技術がある。それをぼく1人の内に忍ばせたのしむのは辛い。どうか、皆に知られて吟味され、必要な人に届いてほしい。そのために、ぼくはうるおい少なき場へと行かねばならんが、心を鎮めて今一度想う。それはそれで楽しいな、と。

 道はみつかった。後は覚悟だけ。