ひきこもりから、社会にあそぶ

常識を壊して、常識にあそぶ、常識を創る

イングリッシュブレックファーストから

 用意されたまかないを見て、イングリッシュブレックファーストに構築できるなと、あまりもののパン、コーヒー、まかないのハムとスクランブルエッグを、ブランチとして食べながら思う。

 

 食事がもたらす国民意識。風土に育て上げられる食物によってもたらされる、腸内フローラの独自性。風土の内の季節の転変の中で生き抜き、たのしむ目的意識より選択された食材と調理法。風土も、言語も、体躯の故もちがうから、再現などされてないも同然かもしれないが、今再現可能な最上の中で、満足しながら食べて、想う。イギリスの国土と民とを。

 

 ふと、このようにして経験するぼくの在り方を、どんなふうにしたら社会化できるのか考えだした。

 宗教者の堕落と、都市の発達をうけもった民衆の生活基盤の整いによって、力への意志に目覚めた、彼らより流れいでた科学。その力への志向は、かつて虐げられてきた宗教的なるもの一切への焼き討ちにて、一応の決着をみるも、知ることへの慎重な態度の重要性を覚知しない科学痴者たちの未経験への閉ざされた態度、確定された事実への行き過ぎた信頼は、これまでに獲得された人間的なるものの可能性を、徹底的に不能なものと、押し込めてしまった。それは不全と閉塞を生活に落としこみ、過去へのノスタルジックな回想へと転じ、新たな信念体系の模索へと道を示すことになる。

 我々が歴史の中で血みどろに獲得してきた知識体系への不信をふりおとし、再探求するするためには、経験と事実とをよく分けて思うことが肝要ではなかろうか。

 経験の外に自然的な事実は存在しない。計測されない経験を考慮する、ということは原理的に不可能故に。

 経験されたものの集合より始めるしかない、事実の探求。この経験されるものの中に臆見が混ざるが故に、恐怖する。恐怖は懐疑を鋭くする。特に、知識社会化して、自分の社会的な立場と知性とが深く結合した現代においては、なおも鋭く。舐められたくないもんね、みんな。

 社会的立場、コミュニケーションの際の立場をより良くすることに汲々としたがる愛されたいマンは、必然的に懐疑に囚われる。

 語られた事実により身分を保証し、その身分に安穏を得るが故に、玉石混淆の経験から、荒野を越えて砂金をすくうことに消極的になる。やもすると、暖炉の縁の安楽椅子から、バカな奴らと貶すやもしれない。

 さびしいねぇ。その安楽椅子は、(インディアンを駆逐した上で)開拓者が命懸けで木樵に精を出したが故に、今そこにあるというのに。今ここで、安穏と過ごせるというのに。

 ぼくは、砂金をすくおう。