ひきこもりから、社会にあそぶ

常識を壊して、常識にあそぶ、常識を創る

復興の現状

 楽天カードを申し込んだついでに、楽天インサイト、ポイ活なるアンケートアプリに登録した。まじめに取り組んだことはなかったが、これで間を凌いだり、お小遣いを稼いだらしている人が、本気でいるんだよなぁ。お金が欲しいのなら、起業やら、技能向上と技能提供先を見つけるとかの方が、絶対役に立つのに。

 ぼくは一つの旅、現代のマスに広まる拝金主義の供犠の一形態として、これに遊ぶ。

 そのアプリで福島の農産物への偏見の程度を調べるアンケートに答え、福島、被災地の現状について、まったく無知であることを思い知り、反省を込めてここに記す。

福島復興情報ポータルサイト

https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/

 

復興再生のあゆみ(福島県庁のリーフレット

https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/592236.pdf

 

福島の農産物への偏見に、地元民への友愛から立ち上がり、無言で戦い、報われ始めてもなお、突き進む人のインタビュー

https://www.businessinsider.jp/post-230977

 

がん専門医の福島県民の健康に関する事実と見方

https://ieei.or.jp/2020/03/special201706034/

 

被災地の農作物等に関する輸出規制の事実

https://www.maff.go.jp/j/export/e_shoumei/shoumei.html

 

 

給料のための10キロ〜前時代交通

 日光元湯温泉湯の湖畔前より、中禅寺湖まで10キロ、前払いされた給料をおろすためのATMを求めて歩く。

 寒い。日が陰るなか、はやる気持ちを選ばずに、腹を据えて北風を凌ぐ、価値を削ぐ。

 動物たちに会えるといいなぁ、願望を守護霊に伝えてみる。キツツキ、猿、ウリボーに出くわす。

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 昨日もそうだった。湯の湖畔を歩きながらふと、動物に会いたいと願いたくなり願った。すると、会わせてやろうと返答。だけれども現れず、むりかぁ〜と諦めて、寮の手前で鹿に会う。会わせていただいた?

 昨日といい、今日といい、守護霊的なるものへの信憑性はグッと高まった。

 

 寒さは辛いが、高度成長以前の空調なき時代を味わえているような、貴重な体験はおもしろい。江戸の交通の基本、脚。脚を使って冷えた空の下を這う。良き哉、善哉、これぞ歴史。時代の風は去り失せたけれど、ものを拵え、心を合わせれば、そこに歴史は現れる。臆見かな、けれども最善、これ以上の方法は知らない。

 かつて炭焼きは、むしろ売りは、こうやって寒村より町に降り、銭を得ては薪を買い、簡単に殺すこの風雪をやり過ごしたのかな。良く売れれば、酒や餅、甘味をふところに、家族へふるまい団欒に興じたのかな。歩きながら馳せる江戸の寒村。凍える身体を温める燃料。

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 給料はスーパーで茶に化けて、ほっこり。道路三法を礼拝しながら、バスにほっこり。良き旅路。

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 そういえば、東京の近代美術館で騎龍観音の絵画を観ようとしたのだけれど、どうにも都合がつかなくて残念に思っていた今日この頃、竜頭の滝にて竜頭観音に出会えた。良き縁をもらった。まるで分身のように感じる、通過点としてあるべき姿に感じる、龍と観音の合同。

 

親方との衝突

 また、親方に怒鳴られる。食べた食器を洗えとのこと。「僕のではない」という主張は、罵声によって塗りつぶされる。彼のために、孤独死してしまいますよ、と忠告すべきだろうか。つい先日、社会問題としての孤独について調べていたことが、現に目の前で現象化しそうな心配が、頭をよぎる。

 しかし、口をついて出たのは、「意見がはっきりしていて、わかりやすいですね。」わずかわずかながらの現状への不平。未熟だなぁと反省する。彼の文言の奥に隠された、ロンリネスに集中することを忘れ、他人より排斥される群生生物としての本能的反応に身をまかした。アウェアネスの欠如、作業をしながら次に備えてイメージトレーニング。

 彼は僕が相当目障りなのか、仕事を与えることなく、「出て行け」と一喝。仕事にあぶれた僕は、女将さんに事の顛末を簡潔に伝えると、ホローが入る。根は良い人だから、確かに彼との確執でここを離れた人もいる、でもご飯はつくってくれているし、ごはんを食べていないと、その心配までしてくれている。根は良いから、と。そう呟く女将さんは、より良いコミュニケーションを諦めたことを、僕に悟られないよう、少し声のトーンを明るく、気丈に振る舞っているように見受けられた。

 

 少し前までおられた先輩は、親方を評して、誰かと仲良くなりたいのに、みんなが離れてゆく悲しい人、と。ぼくもそのように感じる。

 孤独問題は、社会的関係が結ばれていないことに、集中されがちだし、ぼくもその一人にもれなかったけれど、よもやこんな形の孤独があろうとは。関係を結びたくても、気性の故、座礁する。切ないなぁ。思い返せば、学校にもそういう人はちらほら居た。必死になって笑いをとろうとするも、すべる人。決意し、話しかけても、無視される人。自分の持てる力を使っても尚、輪に入れずに、殻に閉じこもってしまった人。近くにいたが、忘れていた。

 

 孤独にも種類があるのだな。かの親方は、築けるだろうか、良き人間関係。

 彼がぼくに願う関係は、フランクにくだけた主従関係なのだろう。けどぼくは、それを呑むことができない。以前、「人として平等に話しませんか」と提案した返答は怒号だった。対等を旨とした対話は不可能に近く、その条件が呑めない相手とのコミュニケーションの仕方を、ぼくは知らない。また、学ぶ気も起こらない。

 

 彼がもし、彼の立場から鑑みれば良好、と思しき人間関係を得たとしても、それは前述の、フランクにくだけた主従関係としてであり、それは、民主主義を支える、平等意識を前提とした対話という、現政体を正常に機能させうる人間関係としては現れないだろう。

 

 孤独が内包する、対話の絶滅。知ってはいたが、体験は初めてだ。こんな味なのだな。苦くて、おかしい、複雑なマリアージュ。シェフの長年の研鑽が可能にする、奇々怪界の風味。

イングリッシュブレックファーストから

 用意されたまかないを見て、イングリッシュブレックファーストに構築できるなと、あまりもののパン、コーヒー、まかないのハムとスクランブルエッグを、ブランチとして食べながら思う。

 

 食事がもたらす国民意識。風土に育て上げられる食物によってもたらされる、腸内フローラの独自性。風土の内の季節の転変の中で生き抜き、たのしむ目的意識より選択された食材と調理法。風土も、言語も、体躯の故もちがうから、再現などされてないも同然かもしれないが、今再現可能な最上の中で、満足しながら食べて、想う。イギリスの国土と民とを。

 

 ふと、このようにして経験するぼくの在り方を、どんなふうにしたら社会化できるのか考えだした。

 宗教者の堕落と、都市の発達をうけもった民衆の生活基盤の整いによって、力への意志に目覚めた、彼らより流れいでた科学。その力への志向は、かつて虐げられてきた宗教的なるもの一切への焼き討ちにて、一応の決着をみるも、知ることへの慎重な態度の重要性を覚知しない科学痴者たちの未経験への閉ざされた態度、確定された事実への行き過ぎた信頼は、これまでに獲得された人間的なるものの可能性を、徹底的に不能なものと、押し込めてしまった。それは不全と閉塞を生活に落としこみ、過去へのノスタルジックな回想へと転じ、新たな信念体系の模索へと道を示すことになる。

 我々が歴史の中で血みどろに獲得してきた知識体系への不信をふりおとし、再探求するするためには、経験と事実とをよく分けて思うことが肝要ではなかろうか。

 経験の外に自然的な事実は存在しない。計測されない経験を考慮する、ということは原理的に不可能故に。

 経験されたものの集合より始めるしかない、事実の探求。この経験されるものの中に臆見が混ざるが故に、恐怖する。恐怖は懐疑を鋭くする。特に、知識社会化して、自分の社会的な立場と知性とが深く結合した現代においては、なおも鋭く。舐められたくないもんね、みんな。

 社会的立場、コミュニケーションの際の立場をより良くすることに汲々としたがる愛されたいマンは、必然的に懐疑に囚われる。

 語られた事実により身分を保証し、その身分に安穏を得るが故に、玉石混淆の経験から、荒野を越えて砂金をすくうことに消極的になる。やもすると、暖炉の縁の安楽椅子から、バカな奴らと貶すやもしれない。

 さびしいねぇ。その安楽椅子は、(インディアンを駆逐した上で)開拓者が命懸けで木樵に精を出したが故に、今そこにあるというのに。今ここで、安穏と過ごせるというのに。

 ぼくは、砂金をすくおう。

 

とびきりの無能、なんにもできない

 困ったな、人の、社会の役に立ちたいと、高いモチベーションで勤務しても、どうにも単純労働は成長し難いようだ。何度も何度も何度も間違える。

 今の今しがたの労務は、ただ荷物のバーコードをスキャンして、画面を確認し、所定の場所に送り込むだけなのに、どうにも画面の確認を忘れて、サブリーダーの仕事を増やしてしまう。こんな簡単なことなのに、画面を確認するだけなのに、それができない。忘れてしまう。

 これまでのバイト先でもそうだった。清掃、土木、飲食、どこも、どこでも、高いモチベーションをもち、YouTubeで作業能率の向上を目指す学びをしていながら、活躍できない。役に立てない。

 特にひどいのが工場での単純作業。禅の作務に習いて集中を研ぎ澄まそうとしていながら、まちがえること、まちがえること。どれも短期のバイトゆえクビになったことは一度もないが、きっと長期前提の雇用であれば、最初のひと月でお役御免のお払い箱行きだろう。

 向いていない、プライドが吠える。けど、そうか?どんな場所でも、咲き栄えると決めて生き始めたのだ。事実がどうあれ、今成したいことに注力するのみ。

 単純作業で役に立つにはどうすれば良いか。飽きること、反復に次ぐ反復にちがいを見いだす。それは今までもやってきた。が、集中の対象が良くないのだろう。自分の体性感覚や、悪の心性にフォーカスがなされ、作業そのものに注意が向いていない。それを改善するためには、静かである、まったく静かであることに耐えて、勇気をもって入らねばならん、禅定に。こわいんだよなぁ、日常であの静けさに入ると、人の眼の一切が気にならなくなる。そうすると変人認定をされて、嫌厭される。はは、こんなことを恐れているんだなぁ、ぼくは。

 味わうこと。瞬瞬間間、意識を朗々と照らして、ふれあうもの、その対象の一切を味わいきりたいという姿勢。その動機は感謝。自分で作った訳でも、育てた訳でもない、あらゆる縁によって育まれたこの自分と、自分が認識できる世界、まるっと愛し赦して、さらによく生きたいと望むこと。その心は、感覚を研ぎ澄まし、認識を広げて、物事の機微を丁寧にひろう、すばらしくやわらかな時間を演出する。この時に入れるよう、静かに勤める。

 でもなぁ、これらも大分、勤めてきた。なのにこの実力。積極姿勢は崩さぬけれど、とほほもとほほ。役に立てぬのなら、いる必要がない。

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ひと月半。東京へ挑み、撤退、決定。

 今日、奥日光の宿屋への派遣が決まった。数日間は、千秋の日月の巡りに等しく、安心の程は、並みではなかった。母はすぐに連絡を入れ、溢れ出でる安心を分つ。

 ネットカフェ、明るすぎる一畳一間にてゆるりと過ごしながら、ながれでるこのひと月半の回想をたどる。

 意気軒昂に、当てもなく水上を羽ばたいた。いのちのつかいかた、まちがえたくなかったから。

 スキルのないぼくには、選べる職業は少ない。けれども、その中において、ぼくがもっとも成長することができる職業を選択することはできる。ぼくは、それを売専と心得た。水上で覚悟はつけてきた。それ以前、実家の布団の中でのたうちまわっている時からすでに、決意はしてきた。

 タイミー、シェアフル、日雇いで学費を稼ぎながら、いつか、いつか、と売専への応募を焦らした。内観は充分、覚悟の一欠片、自分の心に求めず、他に依った。

 覚悟なく、売専の道。贖罪と悪性の許容。それらが未来に起こすであろう、心の地獄。彼らへの拒絶、圧倒的孤独、やわらかな愛の永き喪失。

 これらの不安は、ぼくを労働へ誘う気力を、完全に吸い尽くした。斃れて、泣いた。けれども動く。道を拓くために。ここで斃れることは、私を越えて、縁ある人々全体へと波及する。故に動く。そういって、7、8社に応募したが、すべてエントリー段階にてすべった。

エントリー写真

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 救われた。地獄を選ぶために備えた用意は、すべて台無しになった。それでも、何度も内観して、確認しても、救われた。この結果にしか、辿り着かない。幾年もまたいだ業が、ようやっと溶けた。こころはまた一つ、軽くなった。

 が、思いの外大業で、引きこもりは長引き、水上からの所持金は底をついた。

 根張った腰を、ゆっくりとゆるくやわらがせ、生活を確保するだけの気力を回復させる。その過程で、一度撤退、この4文字は力を得た。

 水を得たうおの如くに、この考えは生き生きと魅力をもって、もっと苦しめ、もっと行ぜよという子守唄を馬耳にて流し、この道へながれた。そして、つながった。

 つながった結果の地より心を観ると、これでよかったと言える。安心、楽天、希望、回復、そして再挑戦。そんな心地を味わいながら、うちこむ画面へ今の今。

 

ドタキャン、二連撃、胸を衝く。

 なぜまたもドタキャンしたのか。考える。

 

 悩んでいる。なにに。東京で、幸薄く、雄大と崇高にとぼしいこの東京で、格闘技の道を歩むか、ゆるやかであたたかで、崇高さに心躍る土地へ、派遣会社の手を借りるか。

 ぼくがやらなければ、1日、また1日と、苦しむ他人の皮を被った私が報われない。彼らを救うことは出来ずとも、彼らに道を提示することならばできる。夢と称して、承認と自己顕示の砂漠に身をやつす彼等に、もっとうるわしく、ゆたかで、あたたかな道を示すことができる。明治維新の頃、国を背負いて、私が為さねば国の進歩が、と気負うた彼等のことを思い出す。つい、急いてしまう。これまで、その気持ちに光を当ててこなかったから。当てても、気づかないふりをしてきたから。他にやりたいことがあるといって。

 

 苦しい。工場労働の単調さ。修行と息巻き、やるときは真剣に向き合って、真剣に向き合ってきた。全体に澱む諦念の空気に、あたたかな心を求められないがゆえに、あたたかくある必要性を失った心に囲まれながら、勤めて明るく、元気に、彼等の心に少しでもあたたかさを写せるようにと、沈ませんとする空気に抗いながら。でも、苦しい。自分の善意が響かない、その端的な事実は、勤めるたびに胸にくる。やめられれば良いのだろうけども、他者への無関心といった荒涼とした心へは戻れない。戻りたくない。現状においては、工場という労働環境のうちにおいては、明るい善良さは自傷行為に等しい。他人からの、明るい返答を期待する自分の未熟こそが問題なのだけれど、怒りと停滞、表には現れてこない深い絶望の空気の中で、それを、その心性を確定させるほどに、ぼくはできちゃいない。

 自分の傷を治そうにも、現実の対人関係にて癒やされるのは、たまの母とのLINEだけ。たまに霊から、天から、とろける心地の極上のやさしさを頂くことはあれども、霊的な世界を信じきれていないがゆえに、このやさしさは、疑念によって食い尽くされる。

 

 哀れみ。有名を凌駕する、知識と技量をもつ自認するが故に、現状、自分の価値に無理解な、つまらぬ人間の下で、つまらぬ仕事に励み、つまらぬ生活のための維持に勤めなければならん、という愚痴が、何度も何度も何度も何度も心に浮かぶ。はじめて働いたのはいつだったか。その頃よりの、長い長い、進歩しない愚痴。こんだけ言ってんだから、もうちょい巧い口上にでもならんかね、まったく。そんな愚痴さんは、でてきたが最後、ここであったが百年目、殺されるか、無視されるか、感謝される。が、そのように応答しては応答して、応答に応答を重ね続けていると、ふと、淋しくて、哀しくて、やり切れなくて、叫びだしたくなる。しなだれ、もたれかかりたくなる。切なさは、労務に励み、自動機械と化した、身体の一連の流れを停止させ、涙ぐませる。誰にも気づかれたくないし、そんな甘さを、世界への淡い期待を維持し続ける自分が嫌いで、そんなことは、そんな心はなかったことにする。

 でも、これ、日に数度、多い時は四六時中、そんな心になる。無視し続けるのもしんどくて、でも期待は外れる哀しみを孕んでいて、保持し難く、どこに心を置けばいいのやらと、泣きむせぶ。

 禅によって、無常によってケリはつくのだけれど、無常の立脚地には細心の注意が必要で、哀しみでも、よろこびでもだめで(よろこびは、期待を呼びこみ孕み、冷めて凍えるから)過去を越えて、未来を外れて、今なる円相より戴かなければ、未来へ負債を積む羽目となる。

 

 風邪、倉庫寒い。

 

 しあわせに生きることへの、淡く、決定的な絶望。ぼくはこれから、ますますしあわせになる。福を得る。この確信は、哲学と人間の身心の探求より現れたもので、疑い難い。が、そこより観える展望は、世間に膾炙した、身心と存在の形より遥かに精妙で、それに見合ったよろこびを得られるのだけれど、苦しみからは逃れられない。

 苦しみこそが、生に価値を、望みを与える。そこに、淡い痛みを感じる。

 苦しみの彼岸は、存在を仮定できる。ヨギーのいう、純粋状態へ帰る。それがこれだ。だけど、そこに価値はない。甲斐もない。ただ、在る。それだけ。そこに留まり続けるのなら、至福を味わい続けるのなら、自殺だ。涅槃と呼んでみても格好がつくだけで、人の形をした甲斐がない。

 人として生まれ、呼ばれ、育まれた過去の一切の否定。その過程は受容的態度によってなされるけども、人の形自体を志向しない、人への絶交、絶対の距離へと離れゆくその意志は、長くて永い、淋しさによって維持される。よろこびの開発によって、そこからは離れるのだけれど、そこまでの過程は侘しい。

 だからかな、ぼくは禅的なるものの様式美、好きで嫌い。心から大好きだけど、離れたくなる。みると、ツラい。

 苦しみに応対する力があれば、それはたのしい。けれど、飽く心は発展を望み、望まれた未知は、慮外の趣きをかもすばかりで、力を減ずる。その時、苦しい。望めば、解決され、よろこぶ。でも飽く。くりかえす。くりかえす。何度も。ほんの少しだけ、哀しい。

 

 ドタキャン、この一つの行為に、色とりどりの想いたち。豊かで趣深い、良い時間。