ひきこもりから、社会にあそぶ

常識を壊して、常識にあそぶ、常識を創る

拝む価値、審神者

 夜勤に向けてエナドリをぶち込んだため、眠りを諦め霊を意う。

 スピリチュアリスト、信仰者、宗教者、ぼくはこれらではない。それらを学び、実践し、その価値を量る者だ。彼らの言説に心を傾けると、より明確に自己の立場が明らかとなる。

 いや、ぼくの探求過程には、社会的立場を忘れて熱心するよう注意深く歩みを進めているが、他者を意識すれば即、彼の意識。自他分離の自己言及的態度が現れる、といったところかな。

 占いで未来を知れば、その結果に至る過程は淡白となり、たのしみは減ずる。

 神に寄せれば、自己を有し、たのしむ意味が失われる。(故に究極は解脱)

 霊に依頼すれば、判断、選択のたのしみ、自己自身を生きる必要性がなくなる。

 哀しい哉、良き未来を望みながら、人自身を捧げる。捧げ続けた先は、存在の消失か神か。いずれにしよ、存在の価値は燃やされ尽くし、存在そのものとなるか。存在そのものに価値も意味もないというのに。

 

 霊魂的知識体系の基となる、身心の不思議な現象と反応。更なる探究のためには、知を殺すことを要件とする、啓蒙時代における反社会性を意志しながらも、今このようにつまずく。どうしたもんかね、まったく。

 無頼の探求、やめようか。不安になると、立場が欲しい。弟子でも奴隷でも、立場が明確であれば、やること、できることは定まり、条件の中で生き生きできるから。

 まぁ、その道がないことは知っている。身体がゆるしてはくれないだろうから。だからだろうか、奴隷ですら輝かしい。

 

 

ドタキャンして悦ぶ身体

 工場労働をドタキャンした。何度目かな?夜勤のためしっかりと睡眠をとり、始業に合わせて起きたのにも関わらず。

 不思議なのは、ドタキャンをして、申し訳ないと謝り倒したくなるほど苦しい場合と、スゥーっと憑き物が落ちたかのように、抜けたかのように、身体が軽く悦ぶ場合とがあること。今回は後者だった。

 心理、読み難し。

ジーンズはいて、工場労働。趣ひとしお。

 ようやっと、働き始めることができた。残金千円を切ってようやっと。生活困窮への不安は、ホームレスを意図的に経験したがために薄く、ただ道がわからぬ故に、ここまで長引いた。決断は、撤退。リゾバで市場交換権、ポイントを貯め、出直すことに。何度目か、と落胆も落胆したが、そんな、こんな自分も赦す。忘れていたよ、俺を赦せるのは、俺一人しかいないのだった。大切な人でもいれば、免罪符でも発行してくれたかな?詮無い妄想だな。

 数週間洗ってない服を買い替え、この旅最後の小旅行の小金と、向こうへの移動費、雑費。とりあえず、これらだけは稼ぎ、東京を飛び立とう。

 また単純作業×8時間。わずかな恐れを、命の更なる輝きのために呑み込み、勤務。

 動揺、染和、約1月のお篭り明けには、少なく上出来。

 勤務後、流通センター、平和島を歩く。曇天よりわずかに覗く蒼。うつくしい、あぁ、こんなにも空はすてきだったっけ。酔いしれて、目が回る。ほんとに、うつくしい。これだけで、たったこれだけのことで、こんなにも救われるのか。希望も期待も超えた満足。おぼつかぬ足取りの帰路に、滔滔として広遠な心地。

 生きててよかった。

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初自己啓発本セミナー、すごいなぁ

 引きこもり、コクチーズを覗いて、無料のコミュニケーション講座に参加。来週の宿泊費を除いて、残金1,500円。ルノアールのコーヒーに半額を取られて、席は座る。

 介護職の女性とともに、医療業界を退職し、セミナー講師に生きる彼の話に耳を傾ける。

 セールスはアートであり、5段階の階梯の基礎、心をひらき、ひらかせるには見た目、相槌、承認が重要で、これらは学び実践してこそ腑に落ちる、とのこと。

 どこかで学んだ内容。けれども、自ら傷つくことを恐れずに、今日もコミュニケーションの鍛錬を行う彼より聞けば、自らを省みざるを得なかった。

 俺も行こう。新幹線の自由席で、わざわざ他人の隣に座りべしゃる人もいれば、100人にナンパする人もいる。できるところから、はじめてゆこう。

 まずはさっき教わった、他人を見て褒めるところを探す練習からかな。ありがたいな、道を拓く人。

さんぽ、バーボンロード

 氣が下降し苦しみ、カルナピーダアーサナにて、上昇させる。外に出たいな、付近の名所を調べて、バーボンロード(蒲田駅西口)に遊ぶ。

 考える。工場労働の苦しみ、人の笑顔に、人の役に立っている実感にとぼしい。指示する監督者は、契約を下手に解釈し傲慢となり、当たり前に使役する。共同作業者としての意識に貧しく、"あなたのために動く"ことに感謝されることもない。殺伐とした、澱んだ空気に未熟ゆえに、影響される。

 英霊。大東亜の夢に藻屑と散った、彼らに似ているな。怒りと悲愴に満ちた雰囲気の中、想像力を働かせ、きっとお国の為となるはずだ。西田幾多郎木田元、彼らに学び平和のためと、実に真っ当、されどもこの労苦の傷、癒えず。

 英霊には幾度も心よせてきた。こんな共通点もあったのだな。

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バガボンドを読み返しながら

 ネットカフェへの滞在後4日、所持金5000円。道を決めかね、迷う。

 バガボンドが気になりひさしぶりに手に取って読み返す。なつかしい、昔、遥か遠い昔、熱をあげて読み込んでいたっけ。あの頃は殺気だっていたなぁ。

 いつからだったかな。武より離れはじめたのは。一年はたったような、たたないような。武を極めんと、殺害殺傷の道のために必要な道徳観念を切り刻んで、刻み尽くして、用に尽くした。なのに、選べなかった。布団の中で涙を流すほどに真剣にその道を歩もうとしていたのに、歩めなかった。良心、きっとその核へ至ったのだろう。それからは、武より離れつづける一方だった。極めれなければ、価値はなし。修行への情熱は、自己変容への渇望は、仏教的なるものへの注がれはじめ、慈悲の発現により、他者への警戒と報復を前提とした殺伐とした世界より、自他円融、ともに重ねてよろこび合う、爽快で後腐れのない仏の世界の実現に、想いを合わせてきた。その結果として、筋肉質な体からは肉が削げ、射殺す目付きはふんわりとして、別人へと変容を遂げた。

 けれども今、格闘技の世界、阿修羅の無知の世界へと戻らんと画策している。第一にファイナンス、やりたいことをやれるようにするために。第二に奉仕。自分に属する財産を衆生へと供えさせていただくために。

 だけど、他害の世界は漠涼として、よろこびの果実はほとほと少ない。うるおうよろこびを知ったが故に、あの世界へはあまり気乗りがしない。だから、決意しあぐねていた。

 バガボンドを読んで、改めて気づいた。弱肉強食を理として、適者生存を法と仰ぎ、今も幸薄き心で世界を観じ、行為に行為を重ねて、その心性を靭く固くならしめている人、多いのだと。

 ベランダに出て、都心を眺める。向こう岸には、どれ程幸福、人間存在への無知を重ねて、過去と未来という幻想に囚われて生活する人々がいるのだろう。そのことを想うと、苦しくなる。

 ぼくには、彼らに献げる知識と技術がある。それをぼく1人の内に忍ばせたのしむのは辛い。どうか、皆に知られて吟味され、必要な人に届いてほしい。そのために、ぼくはうるおい少なき場へと行かねばならんが、心を鎮めて今一度想う。それはそれで楽しいな、と。

 道はみつかった。後は覚悟だけ。

自棄の現れ、誠実な動機と不誠実な結果、その奥にある情念について

 今、夜勤をドタキャンした。理由は、列車に乗って気づいたら持ち物としてあるべきはずの軍手を忘れていたから。ふぅ〜と一息、電車賃もったいないなぁと浜松町駅で下車、東京タワーまでぶらつく。

 理由もなく、笑みが吹きこぼれる。なぜだろう、因果の遡及を始めだす。

 この仕事への応募の動機は、前回の労働時、もう一度来ます、とぼくに良くしてくれた先輩への約束を果たすことが主たる目的だった。12時間労働で日給は良いが、それに見合わない3K +騒音付きのヤバいところ。それでも、彼に誠実でありたいと願い、引きこもりを脱し、決意をもって応募したのにな。軍手一個忘れて、諦めた。あぁ、そうか、放浪記だ。林芙美子だ。彼女の世間様から見た不誠実さ、奔放さ、それらは自棄の、社会とそれに属する自分自身への絶対否定の精神に由来するんだよなぁ、なんて思ってたのが、ぼくにもまだ残ってたんだ。自棄の精神の根深さは、本人の思索の程度による。かつて、社会の有り様を憎み、そのような社会を容認する自然を怨み、その様に怨まざるを得ない自分自身を存在させた世界を怨み、怨みに怨み怨む気持ちすら萎えて枯れば、死ぬより他は存在しない認識の中、死ねない自分を怨んで怨んで怨み抜いた。でも、死ねなかったなぁ。それから先、生きるより道がなくなった後も、怨みを動機として生活、勉励、修行を重ねてたのしんできた。その業は、少しの傷でヤケになる、諦めて死なばいいや、といった死を内包し生活をする'ふつう'の裏にひっそりと隠れ潜んで、このように現れるんだなぁ。はは、困ったなぁ、わらうわけだ、たのしいわけだ。死を向いているんだもの。神を信じ、霊を信じ、形而上学に決着をつけると決意したものの、かつての業はなかなかにぼくの心を離れたがらないらしい。ふぅ〜、でもやりようはある。一歩一歩、一歩一歩、誠実に生きる福徳と、不誠実に生きる悪徳とを思索し、行為し励み、サマディを目指し達して、生きながらに死に晒し、死を妄想を超えて体験、その本質を直覚し、人生のよろこびについて、他人の言を参考に体験に体験を重ね重ねて、思索をもとに'ひととして味わいうるよろこび'、を明らかにして実習実験を終えたなら、自棄の精神は自ずから瓦解する。何年の、何十年の時を経ようと、ぼくにはこれぐらいしかやることがない。だって、死ねないんだもの。死ぬよりましな生を探す以外に、ぼくにはなにもない。きっと、どんな社会的な富も、肉欲も、ぼくを死への魅惑よりは救えない。しょうがないから、一歩一歩一歩一歩一歩一歩、歩いてゆこう。

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東京タワー、キラキラ、きれいだな